小穴隆一著『二つの絵』(中央公論社、昭和31年)
芥川龍之介(1892〜1927)の親友、洋画家の小穴隆一(1894〜1966)による回想録(カバーは本人だが、装幀は自装ではなく恩地孝四郎)。芥川が自殺してから約30年たってからの出版だが、過去に書き散らした回想的な短い文章をまとめたもので、重複する内容のものが少なくない。芥川の甥で芥川研究者の葛巻義敏を「家ダニ」と糾弾し、複雑な芥川の家族関係に触れており、そのあたりが復刊されない理由だろうか。
小穴と芥川の付き合いは1919年から。小穴は、当時改造の編集記者だった瀧井孝作に芥川を紹介されている。仕事のペアとしては1921年の『夜来の花』(新潮社)からだ。芥川の葬儀の際の配置図を見ると、どれくらい親しかったのかわかる。小穴は、葬主親族席の真後ろに、菊池寛、室生犀星と並んでいる。当時の文壇勢力図のようなもので面白い(ただし自然主義系の作家は全く入っていない)。天幕椅子テーブルの応接係に川端康成がおり、藤澤清造も同席している。
以下、印象に残った文章を新字新仮名に直して転記する。
僕は宇野の「芥川龍之介」のなかの芥川の女に対する早業のところを読みなおしていて、昔、神楽坂の鳥屋(?)で飯を食ったとき、小島政二郎がさて帰ろうというところで、「だって、芥川さんのは憎らしいほど大きいんだもの、」と、屈託なく笑いこけていたことや、湯河原の帰りに碧童(小澤)が「芥川君のあれでは女はたまらんだろう、」「あれを受ける女は、」と言っていたことを思い出した。(宇野浩二)
芥川の男性器がいわゆる巨根だったという有名なエピソード。
僕は女人たちに「芥川さんはどういう女の人が好きだったのですか、」と聞かれると簡単には説明できずに、どういうものかまわりくどい大正十四年の秋の娘さんを思い出すのだ。そうして、軽井沢の帰り芥川、僕ちゃん(比呂志君)蒲原たちの四人は田端でおりるので大宮で電車に乗りかえた、僕らのうしろからは下町風の質素な身なりの身だしなみのよい母娘が乗ってきて向かい側に腰をかけた、娘さんが立ち上がって網棚に荷をあげようとする、電車が走っているので二、三度よろめいている、と、軽井沢にいて、このてらになかときぐんやぶれてきてはらきりたりときけばかなしも、と言っていて気色がすぐれず、僕の顔いろをみていた毎日のその芥川が、すうっと立っていってその荷を棚にあげてやる、娘さんが芥川に礼を言って席に腰をおろす、娘さんはこちら側の僕の左の席においてあった芥川のスーツ・ケースにじっと目をさらしている。ケースについている小さい活字の芥川の名刺が差し込んである名札入れが垂れ下がって、娘さんの正面に向いている。娘さんはやがて合点して、ちょっと芥川のほうをうかがってからこっくりをするとつつましやかなほほえみをうかべる。という情景を思い出して話をしている。娘さんはどうして芥川の住所を知ったのか、芥川は、「こないだの娘が礼のはがきをよこしたよ、」と言っていた。僕はそういうまわりくどい話をしたあとに、芥川と知り合いになったばかりの頃、いっしょに町を歩いていて、なんであったか芥川が「僕は身なりが綺麗であっても馬鹿と歩くのは恥ずかしいと思うよ、」と突然言っていたことを忘れずにつけ加えている。(車中の娘さん)
芥川が巨根だったということを知っている女性に対しての返答ではなさそうだ。
僕の家の勝手口からはいってきた芥川は、いつもとちがった明るい顔で言った。「僕はやっと安心したよ。僕の読者は三千ある。僕が死んでも全集が三千は出るとやっときょう自信がついた。三千出れば死ねる。」昭和二年に、芥川の第一回の全集が岩波から出た時の部数は五千七百、漱石全集の第一回の時より七百多いという話であった。(妻に対する、子に対する、)
芥川の遺書に全集は岩波で出して貰いたいとあったが、芥川は岩波とは関係がなく、果たして岩波が引き受けてくれるものかどうか不安だったが、小穴隆一を代理人として全集が出されることになった。それまで関係の深かった新潮社は選集『芥川龍之介集』を出した。
岩波は編集費として三千円を提供してくれた。そのなかからまず三百円を受け取って、佐佐木茂索、小島政二郎、堀辰雄、葛巻義敏、僕五人が分けた」(手帖にあったメモ)
妻の友人で秘書役だった平松麻素子との心中未遂の際の芥川との会話。小穴は芥川が死ぬのを見届けることになっていた。
「もっと早くホテルに来て早く死んでしまうつもりであったが、家を出るとき堀辰雄がきて、いま東京中を自動車で乗り回す小説を書いているのだが、金がなくてクルマを乗り回せないと言っていたから、ついでだからいっしょに東京中乗り回していて遅くなった。」(帝国ホテル)
この軽さには驚かされる。このあと、麻素子の友人の柳原白蓮が家中の有り金を全部持って駆けつけてきた。
「麻素子さんといっしょにしばらく暮らすことが、自分の生活を活かすというのならば、支那なら自分がいくらでも紹介して、隠れ家の世話をすると白蓮さんはいうんだが、君はどう思うね。」と芥川は言っていた。(麻素子さん)
ところで、小穴隆一が所有している芥川の本は、ほとんど本人か出版社からもらったものばかりで、買ったの大正六年に阿蘭陀書房が出版した『羅生門』だけ。それも古本屋で50銭で求めたという。それをどこかで聞いた阿蘭陀書房=アルスの北原鐵雄に「あなたはうちで出した芥川のものを持っているそうですね」と言われる。北原鐵雄は北原白秋の弟だ。
芥川さんの処女出版、羅生門は芥川さんが数え年二十六の時のものであります。北原さんはそのとき二十七であったそうです。北原さんの話では、私はそのときまで、芥川という名さえ知らなかったものです。私は与謝野鉄幹から、今度、芥川というめずらしい小説を書く男が出た。是非その男の本を出すようにという手紙を貰って、その鉄幹の手紙で田端に行って芥川に会ったものですという、まことにあっけない話でありますが、鉄幹与謝野寛の手紙でもって、芥川さんの処女出版が阿蘭陀書房の手で行われたということは、文壇のふるい人達にも、いや、死んでいる芥川さんにとってさえ、存外、初耳のことではなかろうかと思われるのであります。(「羅生門」の一冊)
昭和2年に久米正雄が制作した映画(改造社の円本の宣伝)に芥川が映っている。その中に「パパ木登りをしよう」「小穴君たまにはトランプもいいね」という字幕がある。小穴はこの「パパ」を問題にする。
芥川のところでは、当時、養父も養母も(芥川は養子)、伯母さんも、僕ちゃん(比呂志君)までも、芥川を”龍ちゃん”といっていたもので、芥川家はパパ、ママなどというハイからさの無い家であったのだから、字幕は改むべきであると指摘して、比呂志君の同感を得たが、岩波の人は、龍ちゃんではいまの人には通じないといっているだけであった。(映画の字幕)
小穴の言うとおり、家族から「龍ちゃん」と呼ばれていたか、「パパ」と呼ばれていたかでずいぶん違うだろう(なお、YouTubeにアップされているこの動画には字幕がついていない)。
小穴の随筆集は、ほかに『鯨のお詣り』と『白いたんぽぽ』がある。