伊藤整著『鳴海仙吉』(岩波文庫、2006)

澤田繁晴著『炎舞 文学・美術散策』で引用されていた、伊藤整の「鳴海仙吉」を岩波文庫で見つけたので読んでみた。底本は新潮文庫版(1956年初版、1972年16刷)。親本は1950年に細川書店から出た単行本だろう。

500ページ強もあるので腰が引け、読む前にネット上の感想文をいくつ閲覧した。「読みづらい」そして「面白い」という評が目についた。澤田が引用した箇所は、主人公、鳴海仙吉の戦時中の回想部分のごく一部に当たる。戦前文壇を題材にした私小説かと思っていたら、もっと実験的な作品だった。

岩波文庫版では次男の伊藤礼が解説を書いている。小説の中身には触れず、執筆当時の伊藤整について紹介している(新潮文庫版の解説は瀬沼茂樹だが未読)。

読みづらさの理由は、描写方法や文体の違う評論+詩+私小説的小説等が交互にやってくるからだろう。1冊の本にすることを念頭にそれぞれの章が書かれたのか、様々な雑誌に掲載されたものを理論づけて合体させたのか、その辺りは伊藤礼の解説を読めば分かるようになっている。

そして、全てはパロディに思えた。初めて目にするような比喩、意表を突く修飾語、オノマトペ等が湧き出てくるようなことはないが、主人公の設定が大学教師ということもあり、ナボコフの作品と比較することができるかもしれない。この作品の面白さは、伊藤の理論と実践を追体験するところにあるのではないか。

アマゾン等には、評論の『小説の方法』と同時並行的に執筆され、

伊藤整(一九〇五‐一九六九)の中期を代表する長篇。明確な方法意識に支えられた構成上きわめて実験的な小説で、詩、戯作評論、戯作講演、独白的手記、間接描写、戯曲形式の混合体となっている。

と紹介されている。

伊藤整夏葉社の『近代日本の文学史』(光文社版が底本)しか読んだことがなかったので、本書が伊藤の中でどんな位置づけにあるのかは分らないが、講談社文芸文庫の『日本文壇史』の人という覚え方は失礼だったと反省した。

私は読みづらいところは、どんどん飛ばして読んだ。あまり飛ばし過ぎると「疎開中の大学講師の初恋の人の妹が未亡人となって現れ双方惹かれるものがあったが破局した」だけしか残らない。