福永武彦著『告別』(講談社、1962)

単行本の『告別』は、「告別」(初出は「群像」1962年1月号)と「形見分け」(同1961年3月号)の二編を収録し、1962年4月に発行された。菅野昭正による解説付の講談社文庫版はその11年後、1973年4月に発行されている。単行本は正字歴史的仮名遣いで、文庫の方は1973年当時の当用漢字/現代仮名遣い。

「告別」は発表から50年以上経っている作品だが、古臭くて読めないかというと、そうでもない。主人公(作家)の友人(大学教授の上條慎吾)の告別式から始まり、その死までのプロセスが主題だとすぐに分かるようになっている。マーラーの「大地の歌」が大きな役割を果たしている。演奏者はともかく、今ではアクセスが簡単になっているから、YoutTubeを流しながら読むと臨場感が高まるのではないだろうか。

文庫のカバー裏に印刷されている粗筋を。

芸術家気質のある中年の学者とドイツ娘との愛、その関係を知った娘の自殺、つづいておこった学者の癌による死――学者の恋と家庭と死を、友人夫婦の眼から捉え、原始人は死を怖れたが、現代人は死をも生をも怖れているという主題を、斬新な構成によって描いた知的心理小説。

中年の学者とドイツ娘との愛というのは、上條の身に起きた「舞姫」のような事件だ。留学中に知り合った(愛しあった)マチルダという女性ジャーナリストが日本にやって来てしまい、上條の妻と対決するが、上條は日本の日常の中では妻を選ぶ。本当はマチルダが好きな父親の、曖昧な決断を知り、世界がなんだかとっても嫌になってしまった長女は自殺する。大学生の長女の世界がまだ「家庭」だからだろう。そして、自殺した長女の後追いともいえるような、上條の頑なまでの病院嫌いから来る癌による急死。

今でもありそうな設定だ。まず、かつては大学教授のような数年遊学できるような職業に就いている者だけが遭遇するような外国人との恋愛も、今ではグローバル化が進み、職業を問わず日常的(というのは言い過ぎでも)に耳にすることがある。50年前と比べれば、大学も増えているから教授職の人も多い。

そして、癌はいまだに、突然、襲ってくる。医療が発達したので「いきなり余命数ヶ月」などというのは昔の話かと思っていたら、手がつけられないほど放置してしまった、というのはある意味その人の意思であり、いつの時代も変わらないからだ。

けれども上條の決断についてはどうだろう。家族構成や稼ぎ方が変わった今ならマチルダを選ぶのではないか。それが皆を生かすことにもなりそうな気がする。

単行本のカバーに使われているのは、主人公が好むアフリカ産の仮面。主人公は、急速に容態が悪化していく上條を見舞いに行く合間に時間をやりくりして百貨店の展覧会に足を運ぶ。

彼等が最も恐れたのは死だろう。死は形もなく襲って来るのだ。そこで彼等は死者のための仮面であるバコタをつくった。バコタをかぶる者は、形ある死、彼等野蛮人が眼に見ることの出来る死だった。仮面は、それを自らかぶる者にとってと、それを見詰めている者にとってとでは、別個の意味があるに違いない。バコタをかぶる者は、その間に彼自らが死者であり祖先であることを意識する。彼はその時ひと度死ぬわけだ。また彼を見詰める者にとっては、この怪物は即ち最も確実な未来、――死を意味した。そして死を見るたびに、彼等はその絶対的な魔力が、自分たちに乗り移るのを感じたに違いない。従ってバコタを見ることは、或いは死者を祀る彩色を行うことは彼等にとって生を充実させ、より健康に明日の生活を迎えるための、悦ばしい儀式をなしていた。彼等は笑い、踊った。
<中略>
しかし現代人にとっては(と私は考えた。気分はますます悪くなり、発作は今や各日に起ろうとしていた)、我々は死を恐れるばかりでなく、生も恐れているのだ。我々はみな仮面をかぶって生活し、時々その仮面を取って自分の本当の顔を鏡に移すが、素顔の方が、この生の顔の方が、バコタよりも百倍恐ろしいのだ

この仮面については、我々は当時よりも明確に意識するようになっているはずだ。学校の顔、家庭の顔、仕事場の顔、ネットの顔。ネットの顔でも、掲示板の顔、ブログの顔、mixiの顔、Twitterの顔、Facebookの顔……。仮面を脱ぐ場所を求め、逆にどんどん顔を増やしていく。顔とは「アカウント」程度の意味しかないのかもしれない。

一方、ミステリータッチの「形見分け」は記憶喪失の画家とその妻を描く短い物語。画家の記憶が徐々に回復していくことが妻にとって恐怖となる。こちらは古臭いが安心して楽しめる短編だった。