澤田繁晴著『炎舞 文学・美術散策』(龍書房、2013)

龍書房というのは室生犀星の最晩年の弟子である葉山修平の本を沢山出版している本屋で、葉山が室生犀星学会の会長を務めている関係か、犀星学会員の著書をよく見かける。『炎舞 文学・美術散策』の著者の名前も初めて見たが、川端康成学会、室生犀星学会、芸術至上主義文藝学会の会員とあったので手に取った。経歴は、昭和18(1943)年北海道生まれ、慶応仏文卒業後、出版社等に勤務と短く書かれている。検索してみると、「群系」という同人誌に所属されていて、『輪舞』(2006)、『眼の人々』(2014)という著作もある。

文字数からして「論考」とは呼べない「エッセイ」群で構成されているが、Twitterやブログ的なライトなものを読み慣れている私には、どれもちょうど良い長さで著者の掲げるつぶやきのような疑問(解明はしない)で心地よく宙ぶらりん状態になった。

というのが目次である。原作を読んでみたくなるような評論エッセイが多い。先日紹介したコミックの『月に吠えらんねえ』との関係でいえば、「詩との訣別――犀星と整の場合」が面白かった。整というのは伊藤整のことだ。

ここに、詩との訣別の二例がある。もちろん二者二様である。<中略>伊藤整の小説「鳴海仙吉」の中に次のような場面がある。日本が中国と戦争を始めてしばらくすると、日本の左翼的な政治理論と芸術を結びつけようとしていた芸術家たちはほとんど転向してしまった。一方政治理論と芸術を別ものと考えていた仙吉のような文学者たちも、そのような状況下で居心地が悪くなった。そこで、新しい文芸雑誌を作ろうという話しが出て来て集まった最初の会合で、「はっきりとは口にされなかったが、我々の芸術至上主義的意見は間違いであった、と此の際仕方がないから認めようではないかという空気が生まれた。皆が息苦しく思っている中、その席に仙吉よりも先輩に当る俳句や庭作りの好きな詩人出の小説家諸羽再生がいた。彼はその頃もう一人の芸術至上主義的な小説家小野小路から「この文人めが」と論争文で罵られたような典型的な風流文人型の作家であった。その諸羽再生がその時ひょい立ち上って小声で言った。『ぼ、ぼくは帰る。君たちは、君たちは、芸術の本質は悪であると、昨日まで言って居たじゃないか。』」

諸羽再生は室生犀星、小野小路は宇野浩二。詩との訣別そのものについては本文を見ていただくとして、私はこの引用から、いつか『鳴海仙吉』を読んでみようと思った。