放送随筆―お休みの前に(NHK編、1953)

1951〜1952年までの2年間、NHKラジオ放送用に執筆された随筆500編の中から105編を選んだのが『放送随筆』。

105編は、安藤鶴夫、向井潤吉、式場隆三郎河竹繁俊平山蘆江、小絲源太郎、大町文衛、田辺尚雄、福田清人石川欣一、中村白葉、木村荘八内田亨石井柏亭山田徳兵衛、外村繁、鈴木信太郎、秋山六郎兵衛、前田晁、中村浩、荻原井泉水、池田亀鑑、岡田八千代三宅周太郎水原秋桜子内田誠、宮川曼魚、今東光岩佐東一郎、田辺平学、石川桂郎竹中郁、大悟法利雄、浅見淵中村芝鶴による。

ラジオでの朗読随筆ということで、文字を知らねば意味が分らないような文章は採用されていない。おのずと(明治、大正の)昔話が多い。好評だったのか、続編も刊行されている。最近では『冬の本』(夏葉社)で古書店石神井書林」の内堀弘氏が本書を取り上げていた(入院中の知人を見舞った時に即売会で買った本書を見せる話)。

以下、記憶に残ったものを記す。

中村白葉(1890〜1974)

・だれでも知っている著述家としてSとTとKがイニシャルで登場する。中村はSからこんな話を聞く。KはTの学生だったが、本ばかり買ってしまい、学費滞納で催促の掲示が出て、退学させられそうになった。ところがいつのまにかその掲示がなくなる。Kは自分が天才だから引っ込めたんだろうとばかり思い、そのまま卒業してしまった。何年も経ってから、Kはふとしたことからその学費をTが払っていたことを知った。あまりにも時が過ぎたため、Tに礼を言う機会もない。Tも知らん顔を続けている。Tとはこういう人だとSに話したそうだ。それを聞いてから一週間後、百葉はTに会った。Sから聞いたことを伝えると「Kの思い違いじゃないか。あの男はそそかしいから、学生時代よく本を貸したが、頁の中へ一ぱいフケをためて返してきたりしてね」と話をそらした。

Sは志賀直哉、Tは辰野隆、Kは小林秀雄だろう。この話は知らなかった。

向井潤吉(1901〜1995)

・父親から聞いた話。夜中、厠に行くと、家の外で棒杭の周囲を黒い動物が走り回っていた。翌日聞くと、村の勇ましい若者が退治しようとしても恐ろしくてできなかった大入道だった。その2。夜更けに道を歩いていると、いつも通る森の向こうが大きい川になっていた。川から溢れでた水で渡れそうもない。これはおかしいと一服してから川を見るともう無くなっていた。

平山蘆江(1882〜1953)

・いまだに提燈を使っている。昔は「ぶら提燈」という名で軽蔑された丸提燈で、竹の柄がついており、ひらがなで赤く「こんばんは」とちらしがきをしてある。もう、東京には売ってないので、破れたり煤けたりすると飯能まで買いに行く。飯能でも扱っている店は1軒しかない。

田辺尚雄(1883〜1984

・合宿で、牛込横寺町の剣道場の二階に宿泊した。隣の墓地の向こうにある空き家に蝋燭を置き百物語をやった。田辺はお化けの絵が得意で、自分でも怖くなるくらい素晴らしいお化けの絵を描いた。この絵でMという臆病な友人を威そうというのが目的だった。午前二時、自分の番が来て、空き家に行くと、Sがいた。Mを威かすために隠れているのだった。次にMの番になり、嫌がるMを無理に行かせたら、Mは短刀を懐に入れていったというではないか。これではSはMに刺殺されると思い、追いかけた。

内田亨(1897〜1981)

吾妻鏡を見ると、文治二年から宝治二年までの六十年間に、鎌倉に四度、黄色い蝶がたくさん群れたことが書かれている。黄色い蝶が無えっるときは、戦争があるきざしといわれていた。文治元年には頼朝と義経が不和になり、健保元年には、北条氏に和田義盛一族が滅ぼされ、宝治二年には三浦泰村が滅ぼされた。キチョウはハギの葉を食べて成長するので、当時の鎌倉には一面のハギが生えていたのではないか。

山田徳兵衛(1896〜1983)

・自分の眼を通して頭脳に灼きついた顔の面差しが、手先を通じて人形の顔に出る。絵を描く人は、いつも自分の好みの顔立ちを描いているように見受けられるが、人形の場合は、好みというよりも、おのずと現れる力の方が大きくて、その顔立ちは、自分でどうすることも出来ぬ場合が多い。

内田誠(1893〜1955)

大阪府南河内郡狭山村、狭山池のほとりに住む人と話をしていたら、ずいぶん古い梅干しが貯蔵されていることがわかった。中には天正年間のものもあった。内田の家でも20年のものがあるが300年から400年も前のものは珍しい。木曽の山中で数日過ごしたとき、主人が干し柿を持ってきた。三代目位からのもの。真っ白いカビが砂糖をかけたようであった。