『ふたりの女』(野呂邦暢)を読み終えた

集英社、1977年12月10日初版発行。帯にはこうある。「そうか、おまえも淋しいのか」

収録作品は4点。初出が書かれていないのが残念である。

  1. ふたりの女
  2. 伏す男
  3. 回廊の夜
  4. とらわれの冬

ふたりの女」は「女の話」。「伏す男」と「回廊の夜」は「病院の話」。「とらわれの冬」は「著者を投影した海東君の話」だ。

昨日、幻覚描写について触れたが、「回廊の夜」は胃潰瘍で入院した主人公の幻覚が詳細に描かれ、読んでいると自分が熱にうなされて悪夢をみている気分になる。また、「とらわれの冬」は「一滴の夏」に続く冬の話だが、海東君がやっと職を見つける。

主人公が疲労のあまり、突然、恍惚感あるいは多幸感におそわれるのも野呂邦暢の小説の特徴かもしれない。

まばゆい白光のようなものがぼくを包み、下半身の不快感を取りのぞいた。肩を押しつぶすかに感じられるぬれた外套の重さが消えた。疲労と寒気で刺しつらぬかれていながらぼくはこの上なくいい気持だった。なぜ、どこから「それ」が来るのかぼくにはわからなかった。はっきりしていることは自分が誕生の瞬間から現在までを千分の一秒ほどの短い時間であらゆる細部まで見てしまったということである。すべてが良かった。濡れた外套さながら体にまといついている不幸を自覚するかたわら幸福だと感じたのはその後だ。幸福ですらなかった。快感があまりに昂じると無感覚に近づくものだということをぼくは知った。何もかもこのままでいい。頭がおかしくなっている兄、赤毛の女、死んだ猫、台湾叔父、犬ども、土の下の骨、J銀行、それらはそれ以外のものであり得ない。骨は骨であり、猫は膨れて回転し、台湾叔父は黄金入りの咳止めをのむ。快感は以前としてぼくを金縛りにしていた。赤毛の女、刑務所、犬ども、台湾叔父、いずれも懐中時計のように中身がつまっており充実している、とぼくは感じた。何もかもあるがままでいい。(とらわれの冬)