『王国そして地図』(野呂邦暢)に貼った付箋から

不思議なことに付箋を貼ったらすいすい読めた。一部を転記する。まずは、列車でいっしょになった客は覚えているものだ、というエッセイ。

歩廊の眺め(西日本新聞、1976年6月22日)
私が探しているのは彼らではない。やはり居た。見送り人からやや離れた位置に新婦と同年輩で新婦より数等きれいな女性がたたずんでいる。微笑を含み目顔で行ってらっしゃいと告げているようだ。まだ独身のように見える。

武家屋敷というから、さぞかし立派なものを想像していた。

引越し(いさり火、1975年11月)
そんなアパートで所帯を持つのもどうかと思われて、結婚してからはふるい武家屋敷を借りて、今もそこに住んでいる。六畳二間に三畳というせまい家である。

少年のときの思い出。金田のオヤジさんは酔っ払うと片目だけ赤くなっていた。

靴屋の親子(PHP、1975年7月)
ある日、気がついてみると、金田靴店の看板が消えていて見知らぬ他人が暮らしていた。父親がなくなる前後のことは憶えている。その日はめずらしく仕事をする気になったらしく、古靴の山と向かいあってせっせと針と金槌を動かしていた。わたしは例によって板張りの床のすみっこにうずくまって彼の見事な手さばきに見とれていた。数足すませたところに、客が二人はいって来た。乱暴かつ無礼な客だった。ガラス戸をあけて案内も乞わずにずかずかと二階へあがりこみ、階下へおりて来てから何かいった。税務署員と執達吏らしかった。差押えた家財のことをいっているのだった。滞納した税金を今すぐ支払わなければ、わずかな家財は競売されることになる……。子供にもそういう事情はわかった。父親は二人が親友して屋内を勝手に歩きまわっているときも顔を上げずに、針と槌と鋏を動かしていた。二人のいうことは聞こえないふりを装っていたが、客が子供にはわからないある言葉を口にしたとたん、いきなり指で片目をくり抜いて侵入者めがけて投げつけた。「コレテモ持ッテユケ」靴屋は大声で叫んだ。わたしは度肝を抜かれた。彼のねむたげにふさがりかけた片目は義眼であったことにそのとき初めて気づいた。わたしはとびあがって逃げ帰ったから、差し押さえがどうなったか、その後のことは一切憶えていない。

物書きの特権的な愉しみの一つは、35年たって、特権ではなくなってしまったようだ。だが、孤独も共有された。

壜の中の手紙(郵政、1974年6月)
しかし物書きには相応の愉しみがないでもない。未知の読者からもらう手紙である。わたしの作品に対する感想や批評である。(中略)縁もゆかりもないわたしになぜ手紙をくれるのだろう。人はみな孤独なのだ。かくいうわたしが未知の人々から寄せられる日々の音信を待ちかねていることこそそのいい例である。いってみればわたしは始めて小説を書いて二十数年たってから、まさしく「壜の中の手紙」を拾いあげたのではないだろうか。人が彼自身の密室にこもって外界に発信する便りはすべて「壜の中の手紙」であるように思われる。

たった一人の子供のために挨拶をしてくれたと思いたい、若かった昭和天皇の思い出。

最後の光芒(三社連合扱、1975年8月)
やはり私は一人だったと思う。列車が通過した後、私は周囲を見回したことを記憶している。旧友たちは別の道から家へ帰って、そこを通るのは私しかいなかった。沿道の家々は西日の直射と埃をさけて窓も戸も閉めきっていた。そうすると天皇は列車上からはだしの小学生一人と向かいあったわけである。あのとき、天皇は背筋もまっすぐで少し痩せており、表情にも鋭い線があった。路上に私を認めた人物はたちまち身を返して向こうの窓へ去ったのだが、その瞬間の情景はいくたびも私の中で反芻されることになる。

『王国そして地図』の初版の日付である1977年7月25日に、私は何をしていたのだろうか。
ロンドンPUNKの夏である。輸入版屋で買ったSEX PISTOLSのGod Save the Queenを繰り返し聴いていたような気がする。