『海辺の広い庭』(野呂邦暢)を読んだ
『海辺の広い庭』野呂邦暢 昭和48年3月10日(1973年)文藝春秋発行 http://amzn.to/bqgTs0
本書に収められているのは、「海辺の広い庭」「不意の客」「歩哨」「狙撃手」「或る男の故郷」の5編。付箋を貼ったのは一箇所のみだった。
職業安定所のベンチで呼び出しを待っているとき、隣に老人がかけようとしたので腰をあげて席をゆずった。そのとき強い恍惚感を覚えた。千分の一秒ほどの時間と思われた。世界が無意味ではなくなり、自分をうけ入れて光り輝くかのように感じられた。手垢で黒い艶をおびた木製ベンチが目の前にあった。なめらかな黒褐色の表面がガラスのように光っており、摩滅した木質がへこみ、木目の条痕がかすかに浮きあがっている。そんな微細な物の形がはじめて見るもののように珍しく感じられた。
不規則な間をおいて、そのとき海東が何をし、何を考えているかにかかわりなくそれは来た。蚊帳を吊っているとき、深夜、台所で水を飲んでいるとき、それは訪れた。一つの情景が目に見えた。
海辺に石垣の白い家がある。海との間に広い庭をひかえ、棕櫚の葉が海風に音をたてる。白亜の家の壁は夏の熱をさえぎるほどに充分厚い。乾いたシーツの上、開け放した窓ぎわのベッドにかれは寝そべっている。そこにはだれもいない……。
(海辺の広い庭、P93)
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「海辺の広い庭」は広告代理店の営業マンが主人公。「不意の客」は、同級生を名乗り居候する人物が主人公。「歩哨」と「狙撃手」は自衛隊員が。「或る男の故郷」は精神病院の見習い看護師。
文体に慣れてきたから付箋を貼らなかったのか、スタイルにぎこちなさを感じたから貼らなかったのか。おそらく後者だと思ったので初出を調べてみた。
・海辺の広い庭:文學界 昭和47年11月号(1972年)
・不意の客:別冊文藝春秋 昭和48年春季号
・歩哨:文學界 昭和42年9月号(1967年)
・狙撃手:文學界 昭和41年12月号(1966年)
・或る男の故郷:文學界 昭和40年11月号(1965年)→第21回文學界新人賞佳作
なるほど。昨日は記載しなかったが、『十一月 水晶』の7編の初出も調べてみた。
・十一月:文學界 昭和43年12月号
・水晶:文學界 昭和47年3月号
・日常:文學界 昭和46年10月号
・朝の光は……:文學界 昭和45年2月号
・白桃:三田文学 昭和42年2月号
・日が沈むのを:文學界 昭和47年9月号
・壁の絵:文學界 昭和41年8月号
単行本としては二作目だが、雑誌掲載は本書収録作品のほうが早かったようだ。
ところで、「歩哨」と「狙撃手」の舞台、そして「壁の絵」でも重要な意味を持つ自衛隊という存在は猿芝居のようで、あまり関心を持っていなかったが、きっと、今もどこかの駐屯地で訓練が行われ、この瞬間、死を意識した人間がいる。そう考えると、とても不思議な存在だ。フィリップ・K・ディックがいうところのシミュラクラになってしまっているのではないだろうか。
次は『鳥たちの河口』を読むことにする。