こんなことを思った。

私が子どもの頃、40年ほど前だが、近所で色々な事件があった。子どもながら、大変な事件だと思っても、それは親や近所の大人から聞くだけであり、新聞に載ることはなかった。大きくなってから聞きなおすと、記憶の中の話よりも、もっとおお事だったことが分かることもあった。

そのような事件の、当事者たちの子どもや弟妹が私の友だちでもあったわけだが、新聞というメディアには接してない家の人(子)だった。お金がないというのではなく、活字と無縁の文化の中で生きる人たちだった。

そもそも、想定読者と実読者に乖離があったとしても、メディアは読者/オーディエンスの関心事を伝える。新聞というメディアの読者でない者たちの事件は、新聞は取り扱わないと考えてよいだろう。

もっと狭い領域で例えれば、すぐに分かる。ファッション雑誌では、スーパーのワゴンで売っている衣料でも不満を持たない人たちのライフスタイルは扱わない。

(当事者たちのメディアはテレビだった。だが、当時のテレビは、基本的に生放送であり、また万人に受ける娯楽が中心だ)

メディアが増え、発達し、報道メディアは新聞のみの時代から、テレビ、ネットと複数存在するようになった。一昔前ならば、どのようなメディアにも接しなかったような層の人たちも、報道メディアにとってはオーディエンスとなっている。

彼らがメディアのオーディエンスとなると、メディアは彼らの間で起きる事件を伝える。

だから、「世の中が変わった/物騒になった/子どもが危ない」というのは間違いである。正しくは、メディアのオーディエンスが増え、メディアはそれに対応したのである。

自分に不要な情報が溢れていると感じるとき、何をシャットアウトしたらよいのか迷う。ひょっとしたら大事なことを聞き忘れているのではないか。読み忘れているのではないか。そんな強迫観念を性格の1つとして生きることになる。

一方、必要な情報がないと感じるとき、自分はどうしていたのか、思い出してみる。その行動は、きわめてシンプルだったことに気がつく。必要な情報を求め、探していたのだ。

したがって、処世術としては、こういうのもありかもしれない。

自分の身を、常に未知の領域=情報不足の領域に置く。

なんとも落ち着かない生き方ではあるが。