旅のなか 立原正秋

昭和56年2月28日初版発行 角川文庫

文壇の状況というのは、今も昔もよくわからないが、立原正秋には、多くの敵がいたのだろう。

「死者への手紙」と題して、舟橋聖一という作家への追悼文がある。

ことわっておきますが、死者を鞭打つのは私の趣味には入っておりません。相手が生きているときはだまっていて、死後相手を鞭打つのは、どうも最近の日本の小説家、文芸評論家のあいだでの流行らしく、あなたが亡くなったあくる朝の新聞には、さっそくそんな談話がのっていました。川端康成さんが亡くなったときもそうでした。つまり私はあなたが生きているときにあなたを批判したので、あなたの死後もあなたを批判する権利を保有しているわけです。

また、「散歩と芸術院」と題した文章にはこうある。

 去年の秋のある日の午後、この裏山で、あかく熟れた烏瓜を三つとり、ふと東京のほうに目を転じたら、石川達三氏が芸術院に入って行くのが見えた。ほほう、なるほど、なるほど、と私はしばらく見物した。はて、芸術院は民間の機関だったかな、と私はしばらく見物した後で考えた。そうでなかったら、あれだけ政府機関や権力を批判した小説家が、あそこにのこのこ入って行くはずがないだろう……。いや、そうではない。四十年以上も風俗小説・社会小説を書き続けてきたこの小説家は、戦後、衆議院議員に立候補してことがあったくらいだから、やはり権力志向型にできていたのだろう。
 私は昭和四十三年から「早稲田文学」編集長として一年ほどこの人につきあってきたが、そのときあまりにも自己中心的にものを考えるので、仕事がやりにくいことがあった。<野火>や<花影>などの秀れた作品を書きながら、芸術院をことわった小説家もいるので、思いくらべてみるとすこぶる面白い。芸術院いりを悪いと言っているのではない。なかには相応しい人もいるだろう。いったん入ったからには出てこないだろうが、この人はルポルタージュ小説が得意だから、こんどは芸術院の内部を抉った小説を書いてもらえないだろうか。

先に引用した舟橋聖一のことは、吉行淳之介の『懐かしい人たち』の中の「回想・立原正秋」にも書かれている。

それによれば、舟橋が主宰していた「風景」という小冊子があり、吉行が編集長を務めたことがあった。この時、吉行は立原に原稿依頼し、立原がよこしたのが「銀婚式」だった(2月15日の日記参照)。その後、立原は『男性的人生論』という本で舟橋を批判し、舟橋は怒りまくったらしい。

私としては、立原の舌鋒にもいささか行き過ぎを感じたし、舟橋さんにもいわれるだけのことはあるとおもったので、「われ関せず」の態度をしていた。いや、むしろ編集会議においても、立原の名前を避けずに出していた。舟橋さんの死で「風景」は解散し、結局立原は「風景」とは絶縁のまま終わったが、おわりの頃には、舟橋さんは立原の話題にたいしても、厭な顔はしなくなっていた。もう少し時間があれば、和解が成立していたとおもう。

このときの問題処理において、立原は私の態度を評価してくれたようだ。以来、私のことを「上野毛のダンナ」と呼び始めた。

不純なものを見ると喧嘩を売る。そんなオトナは少なくなった。また、「われ関せず」については、距離が遠くなってきた気がする。

エッセイ集の『旅のなか』は昭和52年(1977年)に単行本として出版されている。その頃、私は安全ピンだらけのジーンズを履いて高校に通っていたわけで、当時、縁があるはずはない。

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