奈良の幼女誘拐殺人事件について

極東ブログを見てたら、新聞配達員・勧誘員について、こう書いてあった。

今回の事件で、市井の人なら新聞配達員ということがかなりひっかると思う。端的にいえば、かなり多くの人が新聞配達員・新聞勧誘員に嫌な思いをした経験があるだろう。ひどい言い方だが端的に言えば、「ああいう人たちならやりかねない」といった感じだろうか。恐らく新聞社の側もそのことを理解していると思われる。新聞は表向きでは正義をたれているがそのエリートの裏のゼニの収拾部分には事実上日本の闇に隣接するようなシステムを基礎としている。

今は新聞をとってないので、以下は、私にとっては過去形の話だが…新聞配達員は奨学生も多い。だが、勧誘員の中には、何紙もの勧誘員をやってる人間がいた。「朝日とってるの?じゃあ読売はどう?いらないか…日経は読むでしょ?」と、なかなか引きさがらない。「一度解約して、俺のところで購読してよ」と言われたこともある。

勧誘やら継続やらで、様々な景品を置いてく。けれども、販売店は、チラシ広告の収入が膨大であり、あまり損はないとも聞く。販売店にとっては、新聞は、チラシ広告のためのラッピングペーパーともいえる。

著作物再販適用除外制度(再販制度)で新聞が入っている理由として、宅配制度(新聞配達)を守るためといわれている。

再販と戸別配達制とは関係がないのではないかということですが、理屈としては直接はないのかもしれませんが、実態面から申し上げて、やはり新聞の再販がなくなると、戸別配達の崩壊につながると私どもひしひしと感じている点でございます。

今回の事件は、毎日新聞の配達員だったということもあり、毎日のサイトを見ると、ここまで書くかというほどまでに、記事を書いてる。

再び、極東ブログに戻るが、このようにも書いていて、ハッとした。

私は新聞の宅配制度は不要だとは思うが、反面、新聞配達員が日本社会において、ある意味でセイフティーネットの役割をしていることは重要な意味があると考えている。今回の事件で、新聞配達員が社会的に敵視されないような環境を整備していくことは新聞社の急務だろうし、その手は進められているのだろうが、これらは今後も報道面では見られないだろう。

私がまだ中学生、高校生の頃を思い出してみると、ひょっとすると、子どもがいる家だけかもしれないが、新聞をとってない家は非常に少なかった。マンションにもセキュリティなどなく、それぞれのドアに新聞は届けれらていた。

配達員というのは、ほんの一瞬だが、家に立ち寄るわけである。それから郵便も。朝刊、夕刊、郵便の、一日三回、各家庭を見回りに来てるようなものだ。

昔の日本が安全だったのは、そういったことも関係していたのではないのか?

尊敬されていたかどうかは分からないが「新聞屋さん」と親しみを込めて呼んでいたような記憶がある(「郵便屋さん」も同じだ)。

郵便配達がなくなることは想像できないのだが、もし、全て電子化されてしまったら、犯罪はとんでもない勢いで増えるのだろう。